PEOPLE インタビュー

浜田彰三

なにかプラスαがないと石に申し訳ない。僕には単なる素材とは思えない

取材日:2005/11/18

一日のスケジュールはどのようなものですか?

僕の場合、朝10時から夕方位まで石を彫る作業をしています。休憩は普通に一時間位とりますね。太陽が出ている時間は石を彫る仕事に専念しようと思っているんです。夕方以降は次の日の段取りとか、次に作るものの原型作り。原型は粘土でイメージを作ります。それを窯で焼きます。それを元に彫っていくんです。何を彫るかというのも、いろいろなケースがありますね。頭の中に浮かんだイメージや目に映ったもの。…自然のものであったり、例えば広告の中からイメージを拾ったり。

そもそも石に興味を持ったのは何歳位の時なのですか?

20歳位の時に一冊の写真集と出会いました。兵庫県の北条にある五百羅漢と言われる石仏の写真集です。石の柱の頭を丸めて目鼻をつけたような簡単な石像なんですけどね。非常に面白く感じてそこを訪ねて行ったんですよ。それから僕も何かを作りたいなと思いはじめました。

もともとは、18歳の時に美術学校を受験しようと思って研究所に行っていたんですね。美術学校を目指していた時はデッサンとかしていました。研究所では次第に立体物の方に興味が出て来たんです。

その後、太平洋美術学校という所に通っていました。そこで出会った友人から愛知県の岡崎で石の仕事をしている鈴木政夫さんを紹介してもらえるという話が来たんです。その時はもう、ある石屋さんで仕事をしていたんですが、作業は機械オンリーだったので、自分の求めているものと違う気がしていたんです。

僕は自分の手を使って石を直に彫っていきたかった。どうしてもその技術を身に付けたいと思っていたので、岡崎に訪ねて行ったんです。でもそこでは基本的な技術は教えられないからと、別の石屋さんを紹介してくれたんです。それが鈴木周一さんでした。

周一さんは庭物を作っている石屋さんで、そこで基本的な石を彫る技術を教えてもらいました。そこで石燈籠というのに興味を持って、奈良、京都、滋賀などに残っている名作といわれる燈籠を模刻しました。

石燈籠はある程度できあがっても、その後の調整になかなか時間がかかるんですね。人間をモチーフにしたものであれば、1つの石燈籠を作る間に6点位できるんですね。ですから今は人間をモチーフにしたものの方が多いですね。石燈籠は一つの展覧会で2点か3点位です。

弟子入り期間というのは厳しいものでしたか?

そうですね。僕なんかは比較的優遇されていたのかなって思うんですけど。兄弟子は僕より若いんですよ。親方よりその兄弟子の方が厳しかったかな(笑)

当時純然たる弟子の年季というのは三年。後の一年というのは御礼奉公なんです。一応、年(ねん)は明けたけど、一年は親方に御礼の為の弟子をやると。そうすると晴れて卒業になるんです。給料も自分の作った分の工賃をもらえるんですよ。

親方のもとを卒業してからはどうでしたか?

職人になるつもりはなかったから、年が明けたらさっさと吉田に帰って自分の仕事をしようと思いました。それが1970年頃です。でも戻っても石が無いし、彫る場所も無い。だから資金を作らなければいけないなと。
それで2年間「割子」と言って大きい石を寸法通りに割っていく山石屋の仕事を、山梨の塩山にこもってしていました。非常にきつい仕事なんですけどお金は良かったんです。そして2年後に仕事を始めたら、今度は師匠の政夫さんが具合悪くなっちゃって…。手伝いに呼ばれて3年位行ったり来たりしました。

その間はどこかにアトリエを構えていたんですか?

ええ。仕事場を貸してもらって、庭物を多く作っていましたね。その頃クウェートの王族の庭を作るとかで、石燈籠11点作る仕事が回ってきたりしたんです。湾岸戦争があった時には、あの石燈籠はどうなったかなぁって思いましたね。砂漠の中に沈んじゃっているかなって(笑)。

石燈籠作りから、人をモチーフにした作品作りに変わっていったきっかけは何だったのですか?

石燈籠というのは非常に抽象的な形をしていますが、基本的には丸と四角と三角の組み合わせなんですよ。丸三角四角にボッチをつけていたら子供の像になっていったんですね。ですから、全く別のものを作っている感覚はないんです。

ストーリーゲートで浜田さんの作品が主人公として登場する『石の子』を御覧になって、いかがでしたか?

面白い文章で僕が石に望んでいたイメージになりました。動かない像というのは非常に扱いづらいだろうなと思いました。でも多様な撮影で色んなバリエーションを見せられるなっていうのは思いましたね。作っている方は案外分からないんですよ。一つの方向に偏って見ていたりしていますから。

立体ですから、どこからでも見られるようには作らなきゃいけないなと思いますけど、そういう客観的な見方はなかなかできないんですよね。

あの『石の子』の顔のデザインが決まったのはどれ位前ですか?

『石の子』の第一作目は、15年位前だったと思いますね。あまり顔はリアルに作らないようにしたんです。素材の御影石は結晶が荒くて大きいんですよね。だからあまり自然な形を追っても面白さが出ない。むしろ単純な形がいい。御影石の場合は削るというよりは割るという作業なんですね。割っていく積み重ねみたいな作業。その割るという作業が自分では合っているんですね。

一体作るのにどれ位時間かかるんですか?

スムーズに行けば10日位ですね。他の作品との同時進行はしません。石からの抵抗があるんですよ。だから気持ちが散漫になっていると形になっていかないんです。自分である程度納得行く形になるまで一気にやらないと形にならないんですね。

石というのは特別な素材なんですよ。石に対しては真面目に接しなきゃいけないと思っています。山にあったり川の中にあったりするのを人間が勝手に持って来て傷をつけたりする訳ですからね。なにかプラスαがないと石に申し訳ないです。僕には単なる素材とは思えないですね。

富士山の近くに住んでいなかったら、作品が変わったと思いますか?

うーん、あまり意識はしないんですけど違った物になったんじゃないかなって思いますよ。僕の住む富士吉田は気候風土が厳しい。その裏返しじゃないですけど、あったかいようなできるだけ優しいものに憧れるような…。だから作風がそういう感じになるのかなって思いますね。

浜田彰三(はまだ しょうぞう) Hamada Shozo

1944 山梨県富士吉田市に生まれる。                          
1966 石彫を始める。 鈴木政夫、鈴木周一に師事。 
2004 富士山レーダードームロビーに「想う女」制作。新宿小田急百貨店にて個展。
2005 山梨・酒蔵ギャラリー六斉にて個展。山梨石和町寺院に「子まもり」制作。


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