PEOPLE インタビュー

宇野亞喜良

せめて自分だけでも楽しく面白いと感じながら描いていたい…

取材日:2003/06/06

絵を描くことを意識されだしたのはいつ頃ですか?
 
父はインテリアデザイナーで、母は喫茶店を経営していました。
父は着物の帯に油絵を描いたりもしていて、物心ついた頃から絵の道具が身近にあったんです。
小学校で機関車の絵を描く自分のまわりをクラスのみんなが囲んで見ていたこと、疎開先から絵手紙を送って喜ばれたこと…それらが自分の存在意義を認識することにつながっていったんだと思う。
スポーツも勉強もダメだったからね…(笑)
 
長年第一線で活躍されているイメージがあるのですが、下積み時代はありましたか?
 
ものすごいひどい状態はあまりなかったかな…。
日本デザインセンターを辞めてフリーになって、横尾忠則さん、原田維夫さんと共同事務所をはじめて一年は、お金がないというよりも仕事がなかった。世の中甘くみていたのかもって思う。
ある女性誌の表紙の仕事だけが定期収入。話が上手で女性からも好かれる原田さんばかりが仕事の依頼が多くて、やっぱり人当たりの良さって大事なんだな~と思いました(笑)
 
その頃、絵を描くことへのテンションはいかがでしたか?
 
横尾忠則さんが今まで描いていたものとは違う絵を描きはじめて、周りの人は「これで食べていけるのかな?」って心配したんだけど、それが現代美術的に花開いていったのを目の当たりにしたんだよね。
ボクは別にとりたてて描きたい様式はなかったけど、寺山修司さんたちが中心になって作っていたティーンエイジの女性向けの雑誌に関わるようになってから、女の子の絵を描く機会が多くなった。サイケデリックは自分が好きなものでもあったので、時代の波にも乗りつつ自然にそういう方向に流れていったって感じかな。
 
絵を描くときに考えていることを教えてください
 
出版物の場合は売れる売れないというジャッジが下されることで、ごく一般的な評価はわかるけど、本当にいいものかどうかはわからない。だから、がむしゃらにモノを作るしかしょうがなくって…面白さが受け手にも伝われば一番いいんだけど、なかなかそうはいきませんよね。だからせめて自分だけでも、楽しく面白いと感じながら描いていたいと思います。
 
ストーリーゲートについてどう思いますか?
 
動くファンタジーというか、動かない絵をもとに映像で表現していくのが面白いなと思った。
今回の『キクのご息女』は楽しんで描きました。もともと中国のお話は好きで前から描きたかったこともあるし、立原えりかさんの文章も面白かったので。しつこくない感じで叙情味が出たのでは、と思います。
 
今後、これをやりたいという希望はありますか?
 
自分はやっぱり、人から「こういうことをやりませんか?」というお話を頂くことがうれしい。何より自分に可能性を抱いてくれていることがうれしいです。それに対して、どういう風にこなすか、と言うとへんだけど、自分なりにどういう風にやっていこうかと考えることが楽しいのです。
また、具体的な条件があると、そこからアイデアと共にやる気も出てくる。舞台の場合も、予算通りに計算できる訳ではないけど、舞台の構造とかがわかってから具体的にどうしようかと考える。自分はもう、そういう体質になってるのかな。だから「一生のうちにこういうことをやりたい」と強く思うことって、ないんだよね。

宇野亞喜良(うの あきら)Akira Uno

1934年 名古屋生まれ。名古屋市立工芸高等学校図案科卒業。
1956年日宣美展で特選、東京会員。1960年日本デザインセンター設立とともに入社。1964年退社後、横尾忠則、原田維夫と共にスタジオ・イルフィル設立。
1965年解散し、スタジオRe設立。灘本唯人、原田維夫、山口はるみ、山下勇三、横尾忠則、和田誠等と東京イラストレーターズを設立。
1982年 講談社出版文化賞挿絵賞受賞、1989年サンリオ美術賞受賞、1992年第6回赤い鳥挿絵賞受賞、1999年紫綬褒章受賞など多数受賞。絵本「あのこ」をはじめ、画集「宇野亞喜良のマスカレード」等、数々の作品が出版されている。

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